大学時代の話

A大学にいた頃(2002年4月~2006年3月)の話を適当にメモするページ。今の趣味に通じるできごとを忘れないように書いてみるページ。あまり有用ではない。

一応、

  • 2002年度…1年生
  • 2003年度…2年生
  • 2004年度…3年生
  • 2005年度…4年生

ちなみに「○回生」という言葉を使う文化はなかったが、単位取得状況に関わらず学年は進み、学生は留年生を5年生、6年生…と表現していた。もっとも大学側は留年生を全て4年生として扱っていた記憶。

背景

2001年頃(高校3年の年)に存在したあずまんが大王の「手を洗おー」のポスターは、大体埼玉県のものだということになっているが、なぜか島根県でも使われていて、なぜか高校の先輩はそれを持っていた。そして2002年4月からあずまんが大王はアニメ放送され、東京に行った同期は見られるのに福島に行った私は見られない、という事態に直面した(なお、もともと島根県にはTX系列がなく、近隣でTX系列局を見られたのはテレビせとうちの区域外再送信をしているCATVのサービスエリアであった旧市内だけだった)。

ちなみに高校の頃はその先輩にせいぜいA・Iが止まらない!を借りて読んだくらいで、特別に二次元が好きだというわけでもなかった。ただ過疎地のために列車が1時間に1本しかなく(そのため列車を「4時版」「5時版」などと呼んでいた)、時間調整のために「パソコン部」にいた、というだけだった。

アパート

和室6畳+4畳半(2K)のアパートに住んでいた。学生が住んでいたところは6畳一間(1K)程度が平均だったように思うが、そういう物件を下見はした際に狭く感じたのでこちらを選んだ。しかしこれが全ての始まりで、4年間のうちに荷物が増えまくって上京時の引っ越し時に苦労する原因になった。どうせ卒業したら都市部に(しかもきっと首都圏に)就職するのだから、もう少し考えておけばよかった。

同期のアパートの中では広い方だったので、結果的によくたまり場になっていた。

事務机

大学入学が2002年で、まだデスクトップPC+ブラウン管ディスプレイが主流で、ノートPCはあくまで持ち運ぶ人のためのもので、相対的に高価な割にスペックが低かった(2台目用という感じでもなく、FDDドライブ・DVDドライブ搭載といったものが多かった)。そしてデスクトップPCはまだ自作ブームが続いていて、FF XIがスタートしたのもこの年で(私はしないのだけど付近に…)、ゲーマーが廃スペックなPCを作っていた(作るようになった)時期だった。

ともかくPCは周辺機器含めて大変に重かったので、机の機能性・堅牢性は事務机がよいとの話を聞いて、市内のリサイクルショップを当たったがモノが大きいので坂下の店に置いてあると言われ、わざわざ坂下まで探しに行った。

2003年夏時点の写真(この時点でディスプレイは19インチCRT)

画面のキャラクタはともかくとして、FreeBSDでfvwm2を使っていた。GnomeやKDEといったデスクトップ環境は、ようやく出始めた頃だったように思う。

ちなみに机の下などにコンパネが敷いてあるのは、カーペットの下の畳が傷つかないようにするためだった。

PC環境

本体

入学時点ではAthlonXP 1700+(Windows機)とDuron 1.2GHz(FreeBSD機)で2台体制(ともに自作)だったが、特に前者は後述のアニメキャプチャ機と化すまでは実験機だったので、何度か組み替えていた。ちなみにおそらく高校時代くらいからしばらくAMD信者というかアンチintelというかだった。

ディスプレイ

入学以来しばらくCRTだったのは液晶ディスプレイと比べて安いというのが主な理由だったと思うし、大学は演習室によって液晶だったりCRTだったり混在している時期だったが、大学4年の6月にDELLがE193FPを破格で売っていたのに飛びついたのが初めて買った液晶ディスプレイになった。デスクトップPCも液晶ディスプレイが当然になったのはおおよそ卒業した頃だったんじゃないかと思う。
ちなみに少なくとも入学時点ではテレビもまだブラウン管が主流で、付き合いのある同級生で液晶テレビを持っていた人は確か卒業まではいなかった。

キーボード

高校時代からHappy Hacking Keyboard 2は使っていたが、2年になった頃に静電容量無接点方式となったProfessional(初代)が発売され、やたら気に入って刻印ありと無刻印のを1台ずつ買った。気に入りすぎてPFUに就職した同期がいた。ちなみにこのProfessional(初代)の刻印ありモデルは20年経過した2023年現在でも故障することなく常用している。

ウイルス対策ソフト

2004年9月にWindows XP SP2がリリースされ、この頃からWindowsにはウイルス対策ソフトが必須という認識が広まって行った。私はウイルス対策ソフトをパッケージ購入した覚えがないけど何か使っていたので、wakwakの月額オプションとして提供されていたMcAfeeを使っていたと思ったけど違うらしい。ちなみにこの頃話題になったウイルスはスクリーンショットを晒すトロイが多かった。Winnyなどがまだ流行っていてファイル交換ソフトを介して広まることが多かったので、痛いスクリーンショットが話題になった。

USBメモリ

そもそもUSBメモリが使えるようになったのはWindows 95 OSR2から(しかも要ドライバ)で、高校の頃から8MBのを持っていたが、大学に入ると大学で使うことがない(データはSSH転送すればよいので、持ち歩く必要がなかった。またDropboxやOneDriveのようなクラウドストレージはまだなかった)ため、いつ頃か128MBのを買ったらしいがほとんど使うことがなかった。大学の演習室ではフロッピーディスクとMO(確か230MBまで)が使えたので、データを持ち帰る人はそれらを使っているらしかった。世間的には概ね私が大学にいる4年の間にフロッピーディスクはフェードアウトして行った。

ちなみにリムーバブルメディアは、私自身は主にDVD-RAM(片面4.7GBで両面9.4GBのもの)のいわゆる「殻つき(メディアがケースに入っているタイプのもの)」のを使っていたが、どのメディアがメジャーであるかという世間的な流行はよく認識していなかった。気づいたらいつの間にかUSBメモリが標準になっていた印象だった。ともかく他人とデータを物理メディアで交換したり、私自身が自宅以外でデータを扱う必要がほとんどなかった。たまにそういう必要が生じたときはDVD-Rなどに焼いてやりとりしていた。

ちなみにSDカードリーダー(など)がノートPCに一般的に搭載されるようになったのは大学卒業後だったと思う。それ以前はUSB接続のカードリーダーを使っていた。なお、SDカード自体がメモリーカードの中でまだそんなにメジャーな地位ではなく、SONYは自社製品にMemory Stickを採用していたし、OLYMPUSのデジカメ(後述)はxDピクチャーカードだったし(更に前のOLYMPUSはSmartMediaを採用していた)、SDカードないしminiSDカード・microSDカードが定番メディアになったのは卒業してしばらく経ってからだった。

ちなみにUSB 2.0は、標準搭載になりつつあったと思うが対応機器を持っていなかった。

携帯音楽プレイヤー(or シリコンプレイヤー)

一般名詞がよくわからないけど…。Rioは高校の頃に既にあったと思うけど32MB・64MBとかの上に高価で、大学に入って以降はMMC(Multi Media Card)をメディアとして使用するものなどが比較的安価に出回るようになった。しかし初期はmp3でもアルバム1枚分くらいしか入らず、あまり使い勝手がよくなかった。私自身は就活で東京に出たときに買ったiPod shuffle(初代、512MB)が最初だった。

なお、iPod shuffle初代より前はSONY WALKMAN D-CJ01を使っていた。これはCD-DAが再生できるのみならずmp3ファイルを焼いたCD-Rを直接再生できる機種で、当然CDの容量(700MBとか)の制約を受けるが、前述のように700MBあればアルバム数枚分を収めることができたから、当時としては使い勝手がよかった。

LAN環境

前述の通りPCが2台あったので、しばらくはFreeBSD機をNAT箱兼用で使用していた。最初のうちは100Mbpsだったが、後述のBフレッツ導入に前後してGbEスイッチングハブを購入し、構内宅内が無駄に1Gbps接続になった。ちなみにスイッチングハブを単に「スイッチ」と呼ぶ文化圏にはまだいなかった。

WLAN(そもそも「無線LAN」を「WLAN」と表記するのが一般的になったのは大学卒業後だったと思うし、「Wi-Fi」が一般になったのはもっと後)は実験用にアクセスポイント(AP)の中古品・アウトレット品を持っていたが、専らWLANで使うような機器がないので常用することがなかった。なお当時のWLANアクセスポイントは暗号化に対応しているとしても暗号化なしで誰でもつながる状態で出荷されていたものが多く、特にYahoo!BBのモデムの内蔵WLANがあちこちで誰でもつながる状態のまま使われていて、「野良AP」と呼ばれていた。まだ公衆無線LANは流行っていなかった(ノートPCを含めWLANはまだ標準搭載でなかったり、対応した機器そのものがまだ少なかった)。

ADSL

実家はINS64のダイヤルアップだったので大変に不便していたが、大学に入って念願のADSL環境を手に入れた(「ブロードバンド元年」と言われたのが2001年で、選択肢的には当然ADSL、くらいの認識でいた)。電話局からの距離を調べてアパートの地域を絞ったのに、残念ながらあまり速度が出ず、下りが1Mbpsを切るくらいだった。しかし64kbpsと比べれば10倍以上だったので大変に満足した。

ちなみに入学時点でBフレッツ(現在でいうフレッツ光)はニューファミリータイプ(最大100Mbpsで、後に戸建向けとして一般的となるプラン)がまだなく、ベーシックタイプなら導入可能だったと思うが、月額9,000円という価格的に選択肢にならなかった(さらに言えば後述の通り入学時点では携帯を持っておらず固定電話が必要だったが、当時はまだIP電話もひかり電話もなかったから、もしBフレッツベーシックタイプを選択すると固定電話代が別にかかる状況だった)。

余談だけど特に1年の頃は自宅にPCがないとか(これは大学で24時間ワークステーションを使えたことと、現在ほどにPCが安くなかったなどの理由がある)、あるいはPCはあるけどネット環境はないという同期が何人かいて、当時流行り始めたネットラジオの音声を大学でダウンロードし、ファイルを分割してフロッピーにコピーして持ち帰って聴いているとか、誤って演習室でネットラジオを再生してしまい、いきなり「うにゅう!(伺か的な意味で)」とか音声が流れ出した逸話とかがあった。

地名

住んでいたアパートの住所は「会津若松市一箕(いっき)町八角(やすみ)中村東」だったが、読めないし長いので住所を書くのが煩雑だった。隣が「会津若松市桧町」と短かったこともあり、住居表示というもの(法律)を知った。卒業後、当該地域は住居表示が実施されたことに伴い「会津若松市八角町」になった(八潮市垳の問題なんかもあるし、歴史的な地名をなくしていいのか、という問題は別として)。そんな感じで地名に興味を持っていった。

shoo_ka

前述のADSLはYahoo!BB 8M(今のソフトバンクBB)で、最初にYahoo!JAPANのアカウントを作る必要があったが、それがshoo_kaというID/nickを使った最初の機会だった(shooもshoo_kも取得済だったためshoo_kaになった)。

IP電話

程なくYanoo!BBは他社に先駆ける形でIP電話サービス(BBフォン)を始めたので、早速使い始めた。最初は他社IP電話との相互接続もなく、確か携帯へも発信できないなどの制約があった上、前述の通り速度があまり出る環境ではなかったので、何かダウンロードしていたりするとIP電話は使い物にならず、排他利用みたいになっていた。そのうち他社IP電話と相互接続され、携帯とも発着信できるようになり、いわゆる「050 IP電話」が広まった。

050番号はサービス開始当初から割り当てられたのか記憶が曖昧だが、Yahoo!BBはその後BBフォンを標準サービスにした関係で050-1xxx番台の番号を大量取得しているのを電気通信番号指定状況(総務省)で知った。特に役に立つ知識ではなかったが、当時は携帯のMNP制度がなかったので番号からキャリアを調べることができるということをこの辺で知った(しかも当時は「ドコモ東北」とか地域会社で番号を取っていた名残があって、契約地までわかる場合があった)。

苗字

大学自体もだけど、引っ越しに関わる手続き諸々で自分の苗字が割と珍しいということを初めて知った。高校までは100人に1人くらいはいたので考えたことがなかった。地元固有で珍しい苗字といえば「石飛」「柳楽」「錦織(にしこ(お)り)」くらいの認識でいた。

大学のコンピュータ環境

入学時点では基本的にはSolaris 2.6かSolaris 8の環境だった(AIXもあったような気がするけど記憶が曖昧…)。それまでFreeBSDくらいしか使ったことがなかったのでどんなコマンドが動作するのか試そうと思い、シェルを変えようとしたりviとか起動してみたら変な新入生がいると思われてしまった。
基本的に演習に必要なものしか入っていないので何か使いたければ自分で入れるしかなかったが、OSがSolarisの上に当然rootもないので、野良ビルドは割と敷居が高かった。結局動いていたのはSylpheed-1.x, xchat-1.x, Gaim(pidginの前身), Saneくらい。Gtk-2.xはpangoかなにかでつまづいて完成しなかった。更改でSolaris 2.6の環境がなくなったかと思えば今度はSolaris 9が導入され、いくつものバイナリを作る必要があるのも面倒だったが、これはこれで勉強になった。

SL-C1000

3年か4年のとき、so-netのbitWarpのPDA専用プラン(要はwillcom PHS(現Y!mobileケータイ)のMVNO)があり(でき?)、128kbps(4x)が月額2100円でつなぎ放題になった。携帯でテザリングなんかしたらパケット代は青天井だったので、機種が限定されていることを考慮しても割安感があったので卒業が迫った頃に「りなざう」のSL-C1000を購入し、しばらく使用していた。special kernelを入れて電圧をいじったり、クロスコンパイルして作ったRTL8150のドライバを動作させたりしていた。前述の野良ビルドで得た知識が他で役立ったことはこのときくらいしかない。

帰省

最初の帰省のタイミングは1年生の夏休みだったが、7月下旬に前期終了→試験→結果発表→(追試 if any)→夏休み→後期の流れで、積極性がなかったためいつ結果が出るのかわからず8月に入っても待っていたら、お盆にさしかかり帰省の便が確保できない事態に陥った。

これが全ての始まりで、なんとか確保した飛行機の便の直前がちょうどコミケで、どうせ東京経由だし「寄ってけばいいんじゃね?」みたいな感じでC62に初めて参加した。最初に並んだのはTriumphal Records(任意ラジヲとかやっていたサークル)だった。このときまほろまてぃっく~もっと美しいもの~で清水愛たそを知り、一目惚れした。それは別にいいんだけど手元に冊子があることから企業ブースに行ったことは間違いないのに、当時ホール内に「ステージ」があったことを全く覚えていない。

以来コミケを全欠席したのは卒論の時期のC69しかない(提出期限がまさに会期中だった)。

履修登録

履修登録は春休みや夏休みの指定された期間に大学の端末から行うことになっていたが、長期間帰省する人も多く、大学にSSH接続し、SSH port forwardして学内限定サーバに接続して履修登録をしている人が結構いるようだった(ただ1年後期の履修登録の頃はまだSSHサーバがなかったような記憶)。成績発表も同じシステムだったので、みんな当然のようにやっていたが考えてみれば特殊な環境だった。

大学に物理的な掲示板は存在したが、当局からの告知が貼り出されることはまずなかったので、合格発表専用くらいに思っていた。

水樹奈々さん

1年の10月にあった学祭のゲストに水樹奈々さんが来た。

夏頃には決まっていたらしく知っている人は騒いでいたが当時の私は何も知らず、夏休みが終わった後に亞里亞(シスター・プリンセス)の中の人が来るらしいと認識したが参加は締め切られていて、当日券目当てで学祭に行ったらすんなり当たって参加することになった。シングルでいうと6thのsuddenly ~巡り合えて~が出た後くらい、アルバムは1stのsupersonic girlしか出てなかったはずで、確かに当時から上手かったがまさか東京ドーム公演を挙行する大物になるとは想像していなかった。

当時から遠征者が多く、クイズで賞を取った人は大阪から来てた記憶。しかしその後も一般人である同期が何人も参加してしまったので、駐車場でPPPHやってるファンの集団がいたとか色々と伝説になった(当時はまだMIXとかなかった)。

アンテナ

当時の地上波はまだアナログ放送のみだったが、アパートの契約後、共同アンテナがないことに気づいた。不動産屋曰く「室内アンテナで見てください」と…。確かに電波塔(背炙山)は窓から見えるくらいの距離ではあったのだけど。最初は室内アンテナやらで頑張っていたが映りに納得できず、同時に上述の問題もあって最終的にこうなった。ブースターは40dBだった。

当時Palwave-AIZUという遠隔受信を扱ったサイトがあり、比較的近隣(建福寺前?)で受信しているようだったが、確かに深夜のテレビ東京は音声が聞き取れ、映像も内容が確認できる程度に映ることが多かった。

しかも受信した証拠を残した。

QSLカード的には「25時」とかありなんだろうか。

ちなみに付近の民家は162C58(VHF5エレ、UHF8エレの複合アンテナ)が多いように見えた。

SNS

2004年に高校の同期から連絡があり、「mixiというコミュニケーションサイト(?)があるので登録して欲しい」ということで、アカウントを作った。後から知ったがこの同期はmixiの中の人と知り合いらしく、その「友人」の中に1桁のIDの人がいた。私のアカウントは5桁になった。
某IRCチャネルに入り浸っていたこととも関連して初期は技術的な会話をする場になっていたが、次第に高校や大学の同期も増えて行き、内輪用コミュニケーションツールの色彩が濃くなっていった。そのうち(知り合いがではないが一般に)日記を読んだらコメントを残すことを強要する「読み逃げ禁止」などの変な文化が持ち込まれ、あまり使わなくなった。

ちなみにmixiのようなサービスを「SNS」と呼ぶようになったのは、結構経ってからだった。携帯向けSNS(GREEとか?)は流行っていなかったか、もしくは流行る前だった。TwitterもFacebookも当然なかった。

携帯

ADSLを使う関係で固定電話が必須だったので(正確にはType2とかあるけど)、入学当初は携帯を持っていなかった。いくら21世紀初頭とはいえ田舎は高校になっても表向きには携帯所持禁止とか時代錯誤なことを平気で言っていたし、携帯でキャリアを超えてメールを送受信できるのが普通になったのはようやくその頃なので、自分が持っていないことを特に異常だとは思っていなかったが、さすがに不便を感じるようになって2003年の春にプリペイド携帯(vodafone J-T05)を買った。1分60円(当時の通常契約でいちばん高いプランの1.5倍だと思う)とかいう料金設定だったが滅多に通話しないので、3,000円のカードで2ヶ月維持していた。これは当時通話が少ないプランで通常契約した場合のおよそ半額くらいだった。何より文字数制限こそあったが(今でいうSMS相当の文字数まで受信できたはず)メール受信が無料だったのが便利だった。

1年後、2004年春に妹が大学に進学することになった。当時学割があるのがauだけで(「学生さんはお金がない」とかいうキャッチフレーズまであった)、私が先に卒業した後のことを見越して(当時は学生でなくなると「家族割」がなければ基本料が大幅に安くなる条件がなかった)auの携帯を契約するように言って契約させた。私自身は3月に赤羽で電車待ちをしているときに寄った携帯ショップでついカッとなってA5502Kを契約した。この機種が2つ折りではなく回転式という当時でも珍しいスタイルで、メインディスプレイが常に外を向いているため着信時に発信元を確認しやすく、これが後のストレート端末属性につながっているように思う(当時はストレート端末も選択肢が少なく、大半の機種が2つ折り端末だった)。

なお、このときのau携帯電話番号は2009年にMNPでe-mobile(当時。現Y!mobile)に転出し、更に2016年3月にみおふぉんに転出したが、今でも残している。

コミケータイ

しかし引きこもりなのでそんなに携帯を使う機会がなく、メールがどこでも受信できることが唯一最大の使途だった。

最大の活躍の場はコミケで、ぴたテンからコゲどんぼ先生つながりで知り合った人をはじめ、IRCで知り合った人とkeitaircで連絡と取るために、8月と12月だけPacketOneミドルパックとかいう通常ではないパケット割引サービス(auはWIN以前はパケット定額制がなかった)を使っていた。輻輳するためバッテリがすぐなくなるので、単2電池を直結する外部電源を自作したりした。これは本体のバッテリと比べて劇的に持ちがよかった。なお、当時からコンビニでアルカリ乾電池で携帯を充電するものは売ってあったが、ケーブルのない直結タイプばかりだったので充電したまま使うのが不便だった。Ni-MHを搭載したようないわゆるモバイルバッテリーは大学時代にはなかった。

デジタルカメラ

「デジカメ」と省略するのは既に一般的だったが、「コンデジ」はようやく聞くようになったくらいだったと思う。携帯のカメラがようやく100万画素になった時期でデジカメの優位性は大きかったが、前出のA5502Kのカメラがそこそこ使い物になった(VGAサイズならディスプレイ上で見る限りは実用的だった)ので、大学入学以前に買ったデジカメもあったが、卒業旅行(後述)のためにOLYMPUS μ600を買うまでは基本的にA5502Kをデジカメ代わりに使っていた。

メール

qcho.jpの項に記載した通り、大学入学前からしばらく自ドメインのメールアドレスを使っていた。レンタルサーバだったのでxbiffのようなもの(qmail用に改変したものだったのか、よく覚えていない)をいわゆるX転送で立ち上げて監視していたが、これは前述の通り最初の1年は携帯を持っていなかった都合もあった。まだPOP3Sははやっておらず、POP3をSSH port forwardして使っていた。IMAPも知られてはいたが、サーバ側の容量の問題などで使うことがなかった。

ちなみにメールソフトは中学3年の頃(1999年1月)からずっとMewを使っていた(当初はMUAの選択肢が乏しく、また日本語入力環境が貧弱だったためEmacsでSKKを使いたいという理由もあった)。大学に入ってからは学内から自宅にSSHログインしてターミナル内でEmacsを立ち上げてメールをチェックすることもできて便利だった。

2005年頃からGmailが流行りだし(それ以前のフリーメールというとYahoo!JAPANとHotmail(後にOutlook.comに統合)が定番だった)、当初は招待制だったので知り合いに頼んで招待してアカウントを作ってもらった。大容量(当時は2GBを超えた頃だった)という面は当時から強調されてはいたが、それよりは当時のWebメールとしては珍しく(?)Fromに別のアドレスを指定することができた(これにより大学のメールアドレスを名乗って返信することができた。Gmail側の仕様変更で現在はできなくなっている気がする)ことと、何より迷惑メールフィルタの評判がよく、広まって行った。そして次第にソフトウェアとしてのMUAを使わなくなっていった(当時は確かPOP3/IMAPやSMTPに対応していなかった)。

しかし主要なコミュニケーションツールはMSNメッセンジャ(後にSkypeに統合)とIRCだった。まだGoogle Talk(現ハングアウト)はなかった。SkypeやYahoo!メッセンジャはアカウントも作ったが、ほとんど使うことがなかった。

tnz.jp

当時から携帯宛の迷惑メールは問題になっていたが、対策は始まったばかりという感じで、また最初の1年はそもそも携帯を持っていなかったこともあり、メールはPC宛に集約したいと思っていた。

IRCチャネルではtnz.jp(リンク切れ)のようなアイデアが提案され、面白いのでこれに相当するスクリプトを書いてレンタルサーバで動かし、A5502K購入から数年間使っていた。qmailにかなり依存したスクリプトであり、この頃はちょっとdjb信者だった。

鉄道

1年の夏に帰省で面倒なことになったことを反省し、帰省するときは前もって交通手段を確保するようにした。飛行機を予約すると地方路線(競争がない)の上に繁忙期なので大変高いので(大学の最寄は福島空港になるが、大してアクセスがよくない上に福島⇔大阪(伊丹)便しかないため私には羽田⇔出雲便しか選択肢がなかった)、大抵は寝台特急サンライズ出雲を利用した。たまに帰省にどのくらい時間がかかるか質問されたが、多分16時間くらいとか答えていた。

最初の頃は知らなかったが、マルスはデフォルトで東京から先の経路を「東海道・山陰」にしてしまうらしく、一度サンライズ車内で差額を請求されたことがあり、乗車券の購入時には経由が正しい(「磐越西・東北・東海道・山陽・伯備・山陰」になっている)ことを確認する必要があることを学んだ。あまり関係ないのだがそれ以降は使用済み切符は必ず無効印を押してもらって回収するようになった。

その頃の切符

サンライズの寝台特急券は1ヶ月前の10時に発売で、10時に窓口についていればソロ、30分くらい遅刻すると売り切れてしまいシングル(出張向けらしく、荷物が置けるように少し幅が広い)にすることが多かった。帰省費用を出してもらっていたので、ノビノビ座席はほとんど乗ることがなかった。

なお、卒業の頃に寝台特急出雲(東海道・山陰経由)が廃止されることとなったので、最後に記念に乗った。利用区間はサンライズと変わらないのに遅いし値段が大して変わらないので基本的に利用することはなかった。最終運行日には既に上京していたので東京駅に様子見に行った。

18きっぷとか

東京の往復にはよく18きっぷを使っていた。県立大なのになので遠方の学生が多かったので、使い残した18きっぷを学内のNetNewsで売買していた(金券ショップは少なくとも近場にはなかったと思う)。どうでもいいけど当時は標準クライアントがmnews(MIME非対応)だったのでSubjectに日本語を使うことに難があり、大体その季節になると [sell] 18 kippu とかいう記事が流れていた。

出雲まで行く場合は部分的に18きっぷを使うメリットがあまりないので、前出の会津若松→出雲市の切符を買い、大抵池袋までは18きっぷのように6時間くらいかけて在来線で出ていた。戻るときは荷物が重いと大宮→郡山のみ新幹線に乗ったりしていた(上の切符がその状況)。

あるとき赤羽で知人と食事をしてからサンライズに乗るつもりで、のんびりしていたらサンライズに乗り遅れ、東京から熱海まで新幹線で追いかけたことがある。

視聴環境整備

前述のアンテナを建てるとテレ東(アナログ)はなんとか見られるくらいに映ったが、録画して残せるような画質ではなかった(もちろん多分そうだろうとは思っていた)。このため、既に時系列がわからなくなっているが、CS110°対応の新古チューナ(DXアンテナ DIR-230)をヤフオクで入手した(もともとは最終兵器彼女が見たいからだった気がする。なお、セットだったBSアンテナは知人に譲った)。録画は専らCS110°に頼らざるを得ず、AT-XとAnimaxとキッズステーションを契約していた。再放送の帯番組(毎週○曜日ではなく月~金放送とかいうやつ)があったとしても1週間に50本キャプチャしてCMカットしてエンコードしていたというのは、今考えると信じがたい。しかも当時はハードディスクが80~300GBくらいの時期で、DVD-Rにちまちま焼いて保存していた。1話あたり200MB前後だった。録画&エンコ環境ありきになり、メイン環境をFreeBSDからWindowsXPに移行することにした。なお現在(2012年)はBS11がアニメを大量に放送しているが、BS11が放送開始したのは卒業後(2007年)だった。dアニメストアやAmazonプライムのような配信サービスも多分まだなかった。また、会津若松での地デジ放送開始は卒業翌年(2006年12月)だったので大学時代に地デジ放送を見ることはなかった。ハードディスクレコーダーは既に商品としてはあったが、アニメは全てエンコードして残していつでも見られるようにしたいという希望があった上、レコ本体がまだ高価であるなどの理由でまだ関心を持っていなかった。

赤外線学習リモコン

1週間の録画番組数がDIR-230の予約機能(当時のチューナーに録画機能は当然ないが、予約した番組の時刻にチューナーの電源をオンにする機能を持っていた)で可能な数をはるかに超えていたため、毎週予約のような機能に頼ることができず、度々予約を追加する必要があった。このためあまり連日家を空けることができなかったが、FUJITSUのIRコマンダ(FMIR-102)の中古を手に入れて以降は出先からRDPで自宅PCにログインし、予約を追加していた。これが後のPC-OP-RS1による遠隔操作につながっている。

なのはさん

CS110°でもカバーし切れるわけではなく、大ヒットした魔法少女リリカルなのはは独立U局のみでCS110°では放送されなかった。1年後にようやくファミリー劇場で放送されたが12月で、降雪のため映らなかった。

3次元Y/C分離

エンコして残すとなるとできるだけ質を上げたくなるが、その過程で「3次元Y/C分離」とか「ドット妨害」「クロスカラー」いうものが出てくる。もはやアニメを離れてNTSCのフォーマットが気になって、色々調べてた挙句、カラーNTSCが白黒NTSCの上位互換であることに感動してよくわからないメモを遺した。振り返るとどう考えてもあほだと思う。しかも厨二病臭がする。どうでもいいことでも日付を年からメモるのは理科系の作文技術による。

ぴたテン

1年の夏休みに帰省しているときに同期から突然「ぴたテンに会津若松駅が出てるwww」とかいうメールが来た。お気に入りの作品に身近な場所が出てくることに親しみを感じて、駅前で湖太郎が紫乃を連れているのと同じ構図(5巻Lesson30「田舎への帰り方」)で写真を撮った。後悔公開はしていない。

ネタばれだけど紫亜さんが亡くなった会津若松駅の待合室の椅子とか、湖太郎が特急券を買った券売機とか無駄に写真を残した。その後のことだと思うが、コミックに出てくる神社を探そうということになり、同期と羽黒山神社に行こうとしたが階段がきつくて途中でリタイアした。その後あの神社のモデルは都内だとかいう話を聞いた。

通販

PC関連の製品やCD類はほとんど通販に頼っていた。当時はAmazon.co.jpはまだ本とCDだけの店で、更に送料無料の条件を満たすことが難しかったのであまり利用しなかった。PC関連のものは通販サイトを巡回して条件のよさそうなところを探していたため、固定的に利用している店はあまりなかった。Amazon.co.jpでPC関連商品を購入するようになったのは社会人になってからだった。

支払いはクレジットカードを持っていなかったので代引か銀行振込が主だった。当初Yahoo!BBの支払い(Yahoo! ウォレット)で使える銀行口座が限られていたためジャパンネット銀行の口座を持っていて、振込手数料が安いのでそれを使うことが多かった。水光熱費・家賃・学費は郵便貯金(ただし郵政省でなく総務省時代)や東邦銀行だった。途中から新生銀行も使っていた。Pay-easy(ペイジー)は知らなかったし、おそらくまだ対応しているサイトがほとんどなかった。

ちなみに駅前に岩瀬書店という普通そうな書店があったが、なぜか一部のコーナーがアニメイト的品揃えになっていたので時々行ったりしていた。

自動車と大雪

2年になる前の春休みに運転免許を取得した(今でいう中型限定・8tまで)。近くの自動車学校に通ったが、季節が季節だけに学生や若い人が多く、最初のスケジュールなどの説明で教官が「若い人は大抵ストレートで合格します」などと言ったが、技能講習が2コマ延びた。最初はやっぱり自分は下手だなと思っていたが、その後免許を取得した同期からもストレートで合格できない人が続出した。

どうでもいいけど住所が長かったので、運転免許証の住所の全てが半角になったのが微妙だった(この頃までは本籍の印字があった)。

その後、乗らないとまた忘れてしまうということで運転練習用に安い軽自動車がないか尋ねたところ、11万kmくらいのトゥディ(確か1993年)が本体5万円、新しいタイヤをつけてコミコミ9万円くらいというので、MTのチェンジが凄いことになっていたし冷房もラジオも壊れていたが、とにかく走るので卒業までそれに乗ることにした(好都合なことに車検が確か3月だった)。冬場は下手すると室内干しした洗濯物が凍るような地域で、ファンヒータとか灯油の暖房機器がないと凍死してしまうから、よく同期の灯油缶を集めて灯油をまとめ買いに行った。

豪雪地帯なので、冬場は車があっても結構大変だった。下の写真は50cmくらい積もっているところで、1シーズンに1,2日こういう日があったけど、大学の講義は平常運転だった。もともと雪国ではない学生も結構いたと思うけど(たださすがに後期の期末試験(2月)は最初から1限が設定されなかった)。

雪が降らなくても放射冷却が酷いと-10℃くらいになり、フロントガラスが内外両面から凍結したので試しに洗面器にお湯を汲んできてかけてみたら、割と一瞬で凍ってシュールだった。

ADSLがリンクしなくなる

2004年(3年生)10月頃に、アパートの隣にあった廃ビルの解体工事が始まった。その頃からADSLの調子が悪くなり、ついにはリンクが確立しなくなった。代替手段がなく、しょうがないのでADSLより割高になるが戸建プランでBフレッツ(現在でいうフレッツ光)を契約した。この時以来ISPとしてWAKWAKを利用している(2017年まで)。この頃のNTTはそんなに積極的に小規模集合住宅にマンションタイプ用設備を導入していなかった(マンションタイプ・ミニ(NTT東日本は4戸以上)がまだなかったので最低がプラン1の8戸だったこともあるか)。

就活

就職率が(当時は?)ほぼ100%だったので就職できない懸念はあまり持っていなかったが、大学は学生に出席を指示して就活ガイダンスを行い、おおよそのスケジュールだとか、「50社・100社受ける人もいる」とかいう話を聞かされた。単科大だし業界は首都圏一極集中であることは明らかで、就活≒東京遠征というのは共通認識だった。大学は後援会名で「就活バス」なるものを出してくれて、池袋まで片道1,000円だったのでかなり助かったが、それでも時間やスケジュールの面から新幹線利用が結構多かった。説明会やらで一緒になった学生と話す機会はあまりなかったが、説明会をハシゴしている話を聞いて都会の学生は有利だなと思っていた。私は往復600kmだったが、毎週往復すると慣れてきてそんなに遠い気がしなくなった4月末に内々定が出た。なお就活のためのこの移動が、卒業・就職後のイベント遠征に無抵抗になった理由の1つの気がしている。

ちなみに前述の「就活バス」は帰りの便も設定され、19時発・23時着の予定だったと思うが、雪で高速道路が通行止めになり26時頃に大学に着いたことが一度あった(路線バスでも雪などによる遅延が度々あり、このためよく「拘束バス」と皮肉っていた)。

それとこの頃はスマホなんてなかったので、一度東京に出てしまうと就活に関わる連絡手段も制限されてしまい面倒だった。ネット喫茶が既にあったかどうかはよくわからない。

履歴書

ちょうど就職活動の最中に地元の自治体が合併し(いわゆる平成の大合併)、町立だった出身中学が出雲市立になった。これに伴い本籍も変わったために郵送で通知が来たから知らなかったわけではないが、履歴書をどうしたのか記憶が不明確で、少なくともそういう場合にどうすべきか調べずに書いていた。今思うと少しいい加減だった。

卒研

研究室配属の際、迷うことなくネットワーク的なところに行きたいと思って教授から何とか了承を得られたが、テーマ選定のせいで(?)えらく難儀した。結果的になんともしょぼい卒論だったけど振り返るとあの頃は大分病気だったんじゃないかという気がしなくもなく。ただ高校の頃からRFCを読むことに執着していたので選択を間違ったと思ったことはなかった。

そういえば研究室の机の下に布団を敷いて寝られるようにしていたが、そういう人があちこちにいたようで学内全体に対して研究室に住まないようにという主旨の指示が出たことがあった。しかし住まなければ大学自体は24時間出入自由で時間帯は関係がなかったので、深夜まで作業していると午前2時頃に同期が現れたりするような研究室、というか学内全体がそんな感じだった。

大詰めの時期は冬になり、窓から状況を見ていて吹雪き始めるとすぐ50cmくらい積もるから帰る意欲がなくなり、カップラとか食べて朝までいたりしたことはあるがそんなに何泊もすることは結局なかった。

そういう卒研だったので、文系学部の卒研の話を聞くとどうもあまりピンと来ないことが多いし、理系でよくある「実験で長時間拘束される」というようなこともなく、ともかく特殊だった。

新海誠監督

おそらく某ゲームの作画がお気に入りの絵師さんだったというきっかけで、OPムービーを手がける新海監督を知る。もしかするとあまりに現実に充実で、模写でしかないと言われるのかも知れないけど私はとても好きだった。

大学3年の冬に監督の「雲のむこう、約束の場所」が公開され、就職活動にかこつけてわざわざ渋谷まで映画を見に行った。ストーリーもよかったと思ったはずだが、「駅のある風景」に執着するようになった。だから私の鉄分は車両ではない。

I’ve in BUDOKAN 2005 ~Open the Birth Gate~

学生時代に行ったライブはほとんどI’veというかKOTOKOイベントで、声優イベントにはほとんど行かなかった。なかなか東京に出られない地理的な都合もあったけどそれ以上にI’veファンだった。そんな折、2005年10月にI’veの武道館ライブがあった。チケットの先行発売がアニメイト店頭であるということで、どうしようか迷ったがさすがにチケ取りのために前日から東京に出られないので、車で1時間かかる郡山のアニメイトに行くことにした。午前4時過ぎに家を出て霧の中を郡山に向かい、6時前から待機して何とかチケットを手に入れた。

お約束の打ち上げは一次会はいつもの知り合いが開催してくれたが、翌日が基本情報の試験日とかで二次会の幹事は私がすることになった。新潟の人がオール前提なら宿取らないって言ってるけどとか言われつつ私も福島からだけど宿ないからよいですよとか言ってたら一次会の最中に二次会の人数が増えるパターンだったが、パセラで2部屋取ってなんとかつっこんで、片方は持込で歌う部屋、片方は子守唄のつもりが両方とも朝まで歌ってた。翌朝は東武浅草線経由(野岩鉄道―会津鉄道)で帰った。チケット販売方法を除いてイベント自体はとてもよかったし、忘れがたいイベントになった。

卒業旅行

2月に卒論発表が終わり、いわゆる卒業旅行をした人たちもいたらしいけど、私のまわりにはいなかったので1人で卒業旅行をしたことにしようと思った。

単に観光してくるのは金がかかるだけで面白くないので、何か面白いことをしようと思ったところ、そういえば札幌出身の同期に北海道・東日本パス(同切符は何度か条件変更されているが、当時は1万円、5日間連続で圏内JR在来線・いわて銀河鉄道(当時、盛岡~目時)・青い森鉄道(当時、目時~八戸)・北越急行乗り放題、青函トンネルは夜行急行はまなすの自由席に乗れる条件だった)で帰ると安いという話をして、同期が実際にやってみたらはまなすで自由席が取れずにデッキで知らない人とビールを飲んで過ごした話など聞いた(ねぶた祭りの関係で乗り場が変更になっているのを誤って教えたお詫びだったとか…)が、結局自分で使ったことがなかったので無謀にも3月に北海道に行くことを計画した。

せっかく北上するなら前出の「雲のむこう、約束の場所」の舞台である津軽線蟹田駅・今別駅を見たいと思ったが、津軽線は1日に上下それぞれ5本しか列車が走ってない(次の写真が今別駅の時刻表)のでスケジュールを検討する必要があった。

結局、

1日目
 会津若松
 →郡山
 →(中略)
 →盛岡(当時ここからいわて銀河鉄道)
 →目時(当時ここから青い森鉄道)
 →八戸(同期が帰省してたので寄り道)
 →青森(急行はまなす乗車)
2日目
 →苫小牧
 →追分
 →新夕張(石勝線特急のみの区間のため乗換)
 →新得
 →帯広(豚丼を食べる)
 →新得
 →滝川
 →岩見沢
 →札幌(急行はまなす乗車)
3日目
 →青森
 →蟹田
 →今別
 →青森
 →(中略)
 →仙台(知人宅泊)
4日目
 仙台
 →(中略)
 会津若松

という無謀な計画を立て、割と予定通り4日目に会津若松に帰ってきた。その後からSNSやらのアイコンが今別駅の「バス回転場所」看板になっている。

中央にあるのが雪に半分埋まっているその看板。後にGoogleストリートビューで見たところ、この場所には小屋が建って看板はなくなってしまったみたい。

(2012.03.08 – 2023.03.05)